可児 徳可児徳(1936年以前)
人物情報
全名可児 徳
別名霞城 徳(雅号)[1]
市岡 徳(養子として)[2]
生誕可兒 コ[3]
(1874-11-07) 1874年11月7日
日本・岐阜県恵那郡上地村[4][5][2]
(現・岐阜県中津川市苗木[4][1][5][2])
死没 (1966-09-08) 1966年9月8日(91歳没)
日本・東京都足立区北鹿浜町[6]
脳内出血[6]
居住 日本・東京都練馬区下石神井[6]
国籍 日本
出身校日本体育会体操練習所[3]
東京外国語学校[3]
両親可児真対[1][注 1]、きう[7]
学問
時代明治 - 昭和
活動地域 日本
学派普通体操・遊戯(スポーツ)派[8]
研究分野体育学
研究機関東京高等師範学校
主な業績ドッジボールの紹介
主な受賞歴藍綬褒章(1950年)[1][9][2][10]
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可児 徳(可兒 コ[3]、かに いさお[3][11]、1874年(明治7年)11月7日[3][2] - 1966年(昭和41年)9月8日[6])は、日本の体育指導者・教育者。東京高等師範学校(現・筑波大学)の教師として校長の嘉納治五郎とともにスポーツの普及に尽力した。また、坪井玄道とともにドッジボールを日本に初めて伝えた人物である[1][12][13][14]。 1874年(明治7年)11月7日[3]、岐阜県恵那郡上地村[4][5](現・中津川市苗木[1][5])で生まれる[3]。父・可児真対(かに まつい[1][注 1])は、苗木藩士で右筆などを務めた人物で[15]、徳は真対の次男であった[1][2][15]。
経歴
生誕から体育教師へ(1874-1899)